【茨城県立歴史館】『アーカイブスにみる茨城の廃線鉄道』 ― 2011年12月03日 23:59
-本エントリはMixiでの日記に加筆訂正したものです-
今日は、ほっとパーク鉾田での保存気動車の修繕作業の予定だったのだが、荒天に見舞われ、残念ながら中止となってしまった。
このため、予定外だったが、今日の午後14時から行われた、茨城県立歴史館で行われた「平成23年度第3回歴史教室」『アーカイブスにみる茨城の廃線鉄道』という、無料の公開講座に参加できる事になった。
定員が200名という事で、開場は13時半、講座の開始は14時だが、当日9時半から入場整理券の配布があるといのこと。11時くらいに一度歴史館の受付カウンターに行ったところ渡された整理券は32番だった。
対象は下記の11路線、旅客輸送を有償で行っていた路線で、かつ現時点で路線が存続していないものというフィルタでピックアップされたものだそうである。
従って、各種専用線・石材運搬路線等は対象外という事になる。
今回、講義の対象となったのは下記。
(1)笠間人車軌道
(2)筑波鉄道
(3)水浜電車(茨城交通水浜線)
(4)鹿島軌道
(5)鹿島参宮鉄道(鹿島鉄道)
(6)村松軌道
(7)常南電気鉄道
(8)茨城鉄道 (茨城交通茨城線)
(9)常総筑波鉄道三所線(鬼怒川砂利線)
(12)常北電気鉄道(日立電鉄)
(11)水戸電気鉄道
蛇足だが、定常的に人員を乗せていて現在は人員を乗せていないか、廃止された鉄道路線となると更に少なくとも下記が追加される事になる。
(A)鹿島臨海鉄道臨港線
(B)日立鉱山鉱山電車
(C)日立製作所専用線
13時頃家を出て開場時間には有る程度余裕を持って歴史館に到着。聴講だけなら入場券は不要との事だったのだが、講義の終了時間から閉館時間までに1時間程あったので、とりあえず入場券もカウンターで購入。
講座は歴史館の講堂で実施、入り口の脇になんか水面に囲まれた変な建物があるなぁ何だろうこれ?と思っていたのだが、それが講堂だった。
この時点で講堂の前のロビーには30人以上、開場を待つ人が居た。
年配の方が多く、次いでおそらく学生と思われる年齢の方が10人弱、おいら位の年代はかなり少ない。
開場後、整理券の番号順に入場。整理券を持ちながらかつ開場前に来ていた人間は意外と少なかった。
おかげで幸いにも、3列めでプロジェクタの斜め後ろの中央通路脇の席が空いており、スクリーンに関しては全く視界が遮られない好位置をゲットできた。
『アーカイブスに見る』という事で、国立公文書館や茨城県の公文書館としても機能しているこの茨城県立歴史館等に収蔵されている公文書から、各廃線鉄道のあらましを見ていきましょうというのが、今回の講座の趣旨。
途中一回の休憩を挟んでまるまる2時間、つまり1路線あたり約10分で、かなりの駆け足の内容。
おいら的には存在を認識していない路線も、多かれ少なかれ廃線探訪的に歩いていない路線も皆無だったので、まぁ予習はバッチリって事だった。
しかし、予備知識の無い方にはいきなり11路線はいささか風呂敷の広げ過ぎだったような気がしないでもない。
あのスピードでは、講聴者が、目まぐるしい展開についてフォロー出来たのかは、まぁ余計なお世話ではあるのだが、ちょっと不安を感じた。
講座の内容的には、鉄道路線の許認可に関わる行政上の書類や、請願等の一次資料に記された内容から、鉄道の敷設・経営・廃止に至る過程を読み解いて行きましょうという流れ。
一次資料から引用した内容から配布資料に起されたレジュメは32ページもあって、正直、『これ、只で貰っちゃってホントに良いの?』という気がした。
休憩時間中と閉講後には、茨城県立歴史館が所蔵している本物の一次資料も閲覧でき、また一次資料を活字に起し販売されている『茨城県立歴史館資料叢書 鉄道関係資料Ⅰ・Ⅱ』も展示されていた。
この文献は初見だったのだが、2冊で4000円程での頒布価格だったので、帰りに受付のカウンターで衝動買いしてしまった。
箱入りの薄紙付きハードカバーでカラーページも有る、かなりお買い得感の強いものだった。
『茨城県立歴史館史料叢書 7 鉄道関係資料 Ⅰ』が2004年の刊行、各鉄道敷設関係資料を収録。泡に帰した意外な鉄道計画の史料がそこここに散りばめられていて、更に常磐炭鉱系の専用線の請願史料まで有る。
『茨城県立歴史館史料叢書 13 鉄道関係資料 Ⅱ』が2010年の刊行、水戸鉄道(水戸~常陸太田・上菅谷~常陸大宮)及びそれに伴う大郡線関連の確執・関東鉄道龍ヶ崎線の成立経緯等が収録対象。
この2冊、斜め読みしてみると公文書であるのに(であるからこそ)かなり人間くさい言葉が慇懃に投げ交せられるという、なかなかに面白い本である。
この叢書、このペースだと2016年には 「鉄道関係資料Ⅲ」が出てくれるのかなぁ。
まぁ、この歴史館で保管されている茨城県の公文書の閲覧ができる事が今回判ったので、閉架の一次史料を出してもらって、自力で当たるという手はあるのだが。これは当然手書きのものなので、書写が面倒であると同時にハズレを引く可能性も有るのだよな。
しっかし『灯台下暗し』ってこれだよなぁ。
茨城県立歴史館の立地する場所は偕楽園の北側の広大な土地。
何故こんな一等地に広大な土地が歴史館建設時に残っていたのかというと、ここは元々茨城県立水戸農業高等学校が立地していた所なのだ。
昭和30年代に入って宅地化に伴い市街地が周囲に広がり、手狭である事や実習用の動物類からの臭気等もあって移転をやむなくされ、水戸農業高等学校は現在の那珂市西木倉の広大なキャンパスに移転し、残ったその敷地を歴史館等の公共施設に転用したのである。
このため、茨城県立歴史館の敷地内には、当時の水戸農業高等学校の本館が復元されて残されている。
そして実は、その水戸農業高等学校は、父の母校であり、更にはその後の父の畜産科の実習助手としての任地でもあったのだ。
そういう訳で歴史館自体にある程度関心と愛着を持っていたのだが、ここはだだの歴史博物館という認識でいたので、ここが茨城県の公文書館として機能しており、一次資料である県の古い公文書が収蔵されているという事は全く知らなかった。
講座の方の内容としてはこんな感じ。
笠間人車軌道は地元からの『軌道は依然としてその中央に蟠居するを以って停車場線県道の交通上に於て危険の甚だしき事』とか『非文化的交通機関』とかコテンパンに叩かれている請願書などかなり面白い。また、この請願書は人車の車両の出自が柴又帝釈天の人車軌道からの転用である事に触れている事も興味深い。
他にも制動装置が余りにも貧弱だとか、怪我人がいっぱい出ているとか。
筑波鉄道は、当初下館への路線を企図していたが、桜川・五行川・小貝側の架橋経費を嫌い雨引を経由して岩瀬に至る路線に計画変更したとか、更に岩瀬から宇都宮に至る路線の計画があったとか。
水浜電車は、那珂湊への路線延伸に関する確執や、延伸こそしたものの併用橋である海門橋の落橋により、それが短期間で終わってしまった事とか。
鹿島軌道は、途中の集落が県道への併用軌道設置に難色を示し集落をバイパスする専用軌道敷での敷設を請願している史料とか、まぁこれは基礎知識だがあっという間に廃線になってしまった事とか。
鹿島参宮鉄道は、鹿島神宮連絡のために『汽船』の営業を届け出ている史料で、兼業として追加する営業内容として『汽船』の他に『養魚』とある事とか。浜駅のドックででも何か飼っていたのであろうか。
村松軌道では、開業時の乗客見積りからそもそも十三参りのピーク旅客を他の期間とは別勘定で考えていた事とか、軌道の設立会社の設置場所自体が村松国蔵尊だったり、発起人が国蔵尊の住職だった事とか。
茨城鉄道が設立当初、最初の赤塚起点の計画を一度水戸駅起点に変更したものの、当時の常盤村での敷地確保に行き詰まり、対象地主多数のため短期での鉄道用地の強制収用の手続きもままならず、結局起点を元の計画である赤塚駅に戻した事も関連する史料類から読み解ける事も紹介された。
こういう感じで、2時間で一気に11路線の解説がなされた。
質疑応答の時間が無かった事は多少残念だったが、講師の茨城県立歴史館史料学芸部歴史資料課の折笠様には、閉講後、個別にお話を伺う事ができ、11路線をピックアップされた基準(フィルタリングの根拠)についても明確なご説明を伺う事ができたのは大変有り難かった。
なんだかんだで、思いもかけず、なかなかに濃い午後のひとときになった。
今日は、ほっとパーク鉾田での保存気動車の修繕作業の予定だったのだが、荒天に見舞われ、残念ながら中止となってしまった。
このため、予定外だったが、今日の午後14時から行われた、茨城県立歴史館で行われた「平成23年度第3回歴史教室」『アーカイブスにみる茨城の廃線鉄道』という、無料の公開講座に参加できる事になった。
定員が200名という事で、開場は13時半、講座の開始は14時だが、当日9時半から入場整理券の配布があるといのこと。11時くらいに一度歴史館の受付カウンターに行ったところ渡された整理券は32番だった。
対象は下記の11路線、旅客輸送を有償で行っていた路線で、かつ現時点で路線が存続していないものというフィルタでピックアップされたものだそうである。
従って、各種専用線・石材運搬路線等は対象外という事になる。
今回、講義の対象となったのは下記。
(1)笠間人車軌道
(2)筑波鉄道
(3)水浜電車(茨城交通水浜線)
(4)鹿島軌道
(5)鹿島参宮鉄道(鹿島鉄道)
(6)村松軌道
(7)常南電気鉄道
(8)茨城鉄道 (茨城交通茨城線)
(9)常総筑波鉄道三所線(鬼怒川砂利線)
(12)常北電気鉄道(日立電鉄)
(11)水戸電気鉄道
蛇足だが、定常的に人員を乗せていて現在は人員を乗せていないか、廃止された鉄道路線となると更に少なくとも下記が追加される事になる。
(A)鹿島臨海鉄道臨港線
(B)日立鉱山鉱山電車
(C)日立製作所専用線
13時頃家を出て開場時間には有る程度余裕を持って歴史館に到着。聴講だけなら入場券は不要との事だったのだが、講義の終了時間から閉館時間までに1時間程あったので、とりあえず入場券もカウンターで購入。
講座は歴史館の講堂で実施、入り口の脇になんか水面に囲まれた変な建物があるなぁ何だろうこれ?と思っていたのだが、それが講堂だった。
この時点で講堂の前のロビーには30人以上、開場を待つ人が居た。
年配の方が多く、次いでおそらく学生と思われる年齢の方が10人弱、おいら位の年代はかなり少ない。
開場後、整理券の番号順に入場。整理券を持ちながらかつ開場前に来ていた人間は意外と少なかった。
おかげで幸いにも、3列めでプロジェクタの斜め後ろの中央通路脇の席が空いており、スクリーンに関しては全く視界が遮られない好位置をゲットできた。
『アーカイブスに見る』という事で、国立公文書館や茨城県の公文書館としても機能しているこの茨城県立歴史館等に収蔵されている公文書から、各廃線鉄道のあらましを見ていきましょうというのが、今回の講座の趣旨。
途中一回の休憩を挟んでまるまる2時間、つまり1路線あたり約10分で、かなりの駆け足の内容。
おいら的には存在を認識していない路線も、多かれ少なかれ廃線探訪的に歩いていない路線も皆無だったので、まぁ予習はバッチリって事だった。
しかし、予備知識の無い方にはいきなり11路線はいささか風呂敷の広げ過ぎだったような気がしないでもない。
あのスピードでは、講聴者が、目まぐるしい展開についてフォロー出来たのかは、まぁ余計なお世話ではあるのだが、ちょっと不安を感じた。
講座の内容的には、鉄道路線の許認可に関わる行政上の書類や、請願等の一次資料に記された内容から、鉄道の敷設・経営・廃止に至る過程を読み解いて行きましょうという流れ。
一次資料から引用した内容から配布資料に起されたレジュメは32ページもあって、正直、『これ、只で貰っちゃってホントに良いの?』という気がした。
休憩時間中と閉講後には、茨城県立歴史館が所蔵している本物の一次資料も閲覧でき、また一次資料を活字に起し販売されている『茨城県立歴史館資料叢書 鉄道関係資料Ⅰ・Ⅱ』も展示されていた。
この文献は初見だったのだが、2冊で4000円程での頒布価格だったので、帰りに受付のカウンターで衝動買いしてしまった。
箱入りの薄紙付きハードカバーでカラーページも有る、かなりお買い得感の強いものだった。
『茨城県立歴史館史料叢書 7 鉄道関係資料 Ⅰ』が2004年の刊行、各鉄道敷設関係資料を収録。泡に帰した意外な鉄道計画の史料がそこここに散りばめられていて、更に常磐炭鉱系の専用線の請願史料まで有る。
『茨城県立歴史館史料叢書 13 鉄道関係資料 Ⅱ』が2010年の刊行、水戸鉄道(水戸~常陸太田・上菅谷~常陸大宮)及びそれに伴う大郡線関連の確執・関東鉄道龍ヶ崎線の成立経緯等が収録対象。
この2冊、斜め読みしてみると公文書であるのに(であるからこそ)かなり人間くさい言葉が慇懃に投げ交せられるという、なかなかに面白い本である。
この叢書、このペースだと2016年には 「鉄道関係資料Ⅲ」が出てくれるのかなぁ。
まぁ、この歴史館で保管されている茨城県の公文書の閲覧ができる事が今回判ったので、閉架の一次史料を出してもらって、自力で当たるという手はあるのだが。これは当然手書きのものなので、書写が面倒であると同時にハズレを引く可能性も有るのだよな。
しっかし『灯台下暗し』ってこれだよなぁ。
茨城県立歴史館の立地する場所は偕楽園の北側の広大な土地。
何故こんな一等地に広大な土地が歴史館建設時に残っていたのかというと、ここは元々茨城県立水戸農業高等学校が立地していた所なのだ。
昭和30年代に入って宅地化に伴い市街地が周囲に広がり、手狭である事や実習用の動物類からの臭気等もあって移転をやむなくされ、水戸農業高等学校は現在の那珂市西木倉の広大なキャンパスに移転し、残ったその敷地を歴史館等の公共施設に転用したのである。
このため、茨城県立歴史館の敷地内には、当時の水戸農業高等学校の本館が復元されて残されている。
そして実は、その水戸農業高等学校は、父の母校であり、更にはその後の父の畜産科の実習助手としての任地でもあったのだ。
そういう訳で歴史館自体にある程度関心と愛着を持っていたのだが、ここはだだの歴史博物館という認識でいたので、ここが茨城県の公文書館として機能しており、一次資料である県の古い公文書が収蔵されているという事は全く知らなかった。
講座の方の内容としてはこんな感じ。
笠間人車軌道は地元からの『軌道は依然としてその中央に蟠居するを以って停車場線県道の交通上に於て危険の甚だしき事』とか『非文化的交通機関』とかコテンパンに叩かれている請願書などかなり面白い。また、この請願書は人車の車両の出自が柴又帝釈天の人車軌道からの転用である事に触れている事も興味深い。
他にも制動装置が余りにも貧弱だとか、怪我人がいっぱい出ているとか。
筑波鉄道は、当初下館への路線を企図していたが、桜川・五行川・小貝側の架橋経費を嫌い雨引を経由して岩瀬に至る路線に計画変更したとか、更に岩瀬から宇都宮に至る路線の計画があったとか。
水浜電車は、那珂湊への路線延伸に関する確執や、延伸こそしたものの併用橋である海門橋の落橋により、それが短期間で終わってしまった事とか。
鹿島軌道は、途中の集落が県道への併用軌道設置に難色を示し集落をバイパスする専用軌道敷での敷設を請願している史料とか、まぁこれは基礎知識だがあっという間に廃線になってしまった事とか。
鹿島参宮鉄道は、鹿島神宮連絡のために『汽船』の営業を届け出ている史料で、兼業として追加する営業内容として『汽船』の他に『養魚』とある事とか。浜駅のドックででも何か飼っていたのであろうか。
村松軌道では、開業時の乗客見積りからそもそも十三参りのピーク旅客を他の期間とは別勘定で考えていた事とか、軌道の設立会社の設置場所自体が村松国蔵尊だったり、発起人が国蔵尊の住職だった事とか。
茨城鉄道が設立当初、最初の赤塚起点の計画を一度水戸駅起点に変更したものの、当時の常盤村での敷地確保に行き詰まり、対象地主多数のため短期での鉄道用地の強制収用の手続きもままならず、結局起点を元の計画である赤塚駅に戻した事も関連する史料類から読み解ける事も紹介された。
こういう感じで、2時間で一気に11路線の解説がなされた。
質疑応答の時間が無かった事は多少残念だったが、講師の茨城県立歴史館史料学芸部歴史資料課の折笠様には、閉講後、個別にお話を伺う事ができ、11路線をピックアップされた基準(フィルタリングの根拠)についても明確なご説明を伺う事ができたのは大変有り難かった。
なんだかんだで、思いもかけず、なかなかに濃い午後のひとときになった。
【鉾田駅保存会】展示線の修復工事が終わり、保存車両が展示線に戻りました。 ― 2011年12月25日 16:51
---12/24付け『鉾田駅保存会』公式ウェブログからの転載です---
皆様に、このクリスマスという時期に、題記のご報告をできる事を、保存会会員一同、大変幸福に思います。
旧鹿島鉄道で活躍していた鉾田市所有の保存車両『キハ601』と『KR-505』は、去る3月11日に発生した、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災・M9.0)と、その約1時間後に至近の鹿島灘で発生したM7.3の余震の直撃に曝されました。
展示施設である、鉾田市の温泉・レジャー施設、『ほっとパーク鉾田』の直近(約500m)にあり、比較的地盤が安定していると考えられる台地上にあるにも関わらず、『鉾田市当間』の観測点では本震による加速度が全国でも5番目となる値を記録し、その震度は関東地方での最大震度である、震度6強となりました。
更に本震の約1時間後に発生した、至近の鹿島灘を震源とするM7.3の余震においても、鉾田市当間は再び震度6強を記録しています。
つまり、大変不幸な事に、鉾田市は、僅か1時間強の間に、震度6強の巨大地震に、2度にわたって襲われるという、前代未聞の過酷な状況に曝されたのです。
『ほっとパーク鉾田』は、巴川の低湿地帯を埋め立てた立地であったため、本館を始めとして多数の施設が、地震による振動とそれに伴って発生した地盤の液状化により、多大な損害を被りました。
それは、保存車両も例外では無く、地盤の液状化により展示線の線路は大きく波打ち傾き、それはその上に載る車両も同様で、周囲のフェンスは多数の箇所で損傷し、見るも無残な姿となりました。
キハ601は、南側の車止め付近の地盤沈下により、脱線こそ免れたものの、約1.5mも線路上を滑って移動し車両の前後方向に傾斜し、床下機器の一部は車体中央部分で隆起した路盤上のレールに挟まれ損傷を受けました。
KR-505は、西側の路盤の沈下により、西側に傾斜した状態となり、やはり脱線こそ免れたものの、床下機器の一部はキハ601と同様に車体中央部分で隆起した路盤とレールに接触し、車両は横方向に傾いていました。
復旧作業の予算の算定、鉾田市としての震災復旧予算の作成、市議会の承認、工事の発注といった諸々の手続きが迅速になされた結果、展示線の路盤の復旧のため、去る12月10日に、キハ601とKR-505は、2台のクレーンにより展示線脇の平場に移動され、展示線の路盤及びレールの復旧作業の完了を待つ事となりました。
路盤及び線路の復旧作業は迅速に行なわれ、昨日、12月23日午前、2両の保存車両は修復された展示線のレールの上に無事戻されました。
展示線の周囲は、崩壊した公園の地盤の修復作業、破損した駐車場の舗装の修繕作業、傾いた街灯の修復作業等が行なわれており、ほっとパーク鉾田の公園内は、現在も引き続き立ち入り禁止となっております。
鉾田駅保存会は、展示線周囲の復旧作業が一段落するのを待って、車両の補修作業を再開する予定です。
保存車両の車内公開が早期に再開できるよう車両の補修・塗装作業を進めてまいります。
鹿島鉄道の廃線から5周年となる、来年、2012年3月31日(土)に向けて、会員一同一丸となり、車両公開準備を進めていきます。
思えば、鹿島鉄道の廃止が正式に決定したのは、5年前の今日、2006年12月24日クリスマスイブの日でした。
鉾田駅保存会の初期メンバー3名が、鉾田駅跡地の賃借と車両の買取による保存活動の継続を決断し、関東鉄道殿と交渉を開始したのは、4年前の2007年のやはり12月下旬でした。
ほっとパーク鉾田での車両の展示保存が決定し、鉾田駅跡地からほっとパーク鉾田へ車両の移送作業が行なわれたのは、2年前の今日、2009年12月24日のクリスマスイブの夜の事でした。
鉾田駅保存会にとって2011年12月23日は、3回目の船出の日となりました。
今まで、有形・無形問わず、ご協力をいただいた皆様、我々を応援していただいた皆様、激励していただいた皆様、本当にありがとうございました。
また、この場をお借りしまして、展示線の復旧にご尽力いただいた、鉾田市役所の関係各部署の皆様、『ほっとパーク鉾田』を管理しておられる鉾田市健康づくり財団の皆様、そして何よりも地元の鉾田市の皆様に、心からお礼を申し上げます。
皆様に、このクリスマスという時期に、題記のご報告をできる事を、保存会会員一同、大変幸福に思います。
旧鹿島鉄道で活躍していた鉾田市所有の保存車両『キハ601』と『KR-505』は、去る3月11日に発生した、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災・M9.0)と、その約1時間後に至近の鹿島灘で発生したM7.3の余震の直撃に曝されました。
展示施設である、鉾田市の温泉・レジャー施設、『ほっとパーク鉾田』の直近(約500m)にあり、比較的地盤が安定していると考えられる台地上にあるにも関わらず、『鉾田市当間』の観測点では本震による加速度が全国でも5番目となる値を記録し、その震度は関東地方での最大震度である、震度6強となりました。
更に本震の約1時間後に発生した、至近の鹿島灘を震源とするM7.3の余震においても、鉾田市当間は再び震度6強を記録しています。
つまり、大変不幸な事に、鉾田市は、僅か1時間強の間に、震度6強の巨大地震に、2度にわたって襲われるという、前代未聞の過酷な状況に曝されたのです。
『ほっとパーク鉾田』は、巴川の低湿地帯を埋め立てた立地であったため、本館を始めとして多数の施設が、地震による振動とそれに伴って発生した地盤の液状化により、多大な損害を被りました。
それは、保存車両も例外では無く、地盤の液状化により展示線の線路は大きく波打ち傾き、それはその上に載る車両も同様で、周囲のフェンスは多数の箇所で損傷し、見るも無残な姿となりました。
キハ601は、南側の車止め付近の地盤沈下により、脱線こそ免れたものの、約1.5mも線路上を滑って移動し車両の前後方向に傾斜し、床下機器の一部は車体中央部分で隆起した路盤上のレールに挟まれ損傷を受けました。
KR-505は、西側の路盤の沈下により、西側に傾斜した状態となり、やはり脱線こそ免れたものの、床下機器の一部はキハ601と同様に車体中央部分で隆起した路盤とレールに接触し、車両は横方向に傾いていました。
復旧作業の予算の算定、鉾田市としての震災復旧予算の作成、市議会の承認、工事の発注といった諸々の手続きが迅速になされた結果、展示線の路盤の復旧のため、去る12月10日に、キハ601とKR-505は、2台のクレーンにより展示線脇の平場に移動され、展示線の路盤及びレールの復旧作業の完了を待つ事となりました。
路盤及び線路の復旧作業は迅速に行なわれ、昨日、12月23日午前、2両の保存車両は修復された展示線のレールの上に無事戻されました。
展示線の周囲は、崩壊した公園の地盤の修復作業、破損した駐車場の舗装の修繕作業、傾いた街灯の修復作業等が行なわれており、ほっとパーク鉾田の公園内は、現在も引き続き立ち入り禁止となっております。
鉾田駅保存会は、展示線周囲の復旧作業が一段落するのを待って、車両の補修作業を再開する予定です。
保存車両の車内公開が早期に再開できるよう車両の補修・塗装作業を進めてまいります。
鹿島鉄道の廃線から5周年となる、来年、2012年3月31日(土)に向けて、会員一同一丸となり、車両公開準備を進めていきます。
思えば、鹿島鉄道の廃止が正式に決定したのは、5年前の今日、2006年12月24日クリスマスイブの日でした。
鉾田駅保存会の初期メンバー3名が、鉾田駅跡地の賃借と車両の買取による保存活動の継続を決断し、関東鉄道殿と交渉を開始したのは、4年前の2007年のやはり12月下旬でした。
ほっとパーク鉾田での車両の展示保存が決定し、鉾田駅跡地からほっとパーク鉾田へ車両の移送作業が行なわれたのは、2年前の今日、2009年12月24日のクリスマスイブの夜の事でした。
鉾田駅保存会にとって2011年12月23日は、3回目の船出の日となりました。
今まで、有形・無形問わず、ご協力をいただいた皆様、我々を応援していただいた皆様、激励していただいた皆様、本当にありがとうございました。
また、この場をお借りしまして、展示線の復旧にご尽力いただいた、鉾田市役所の関係各部署の皆様、『ほっとパーク鉾田』を管理しておられる鉾田市健康づくり財団の皆様、そして何よりも地元の鉾田市の皆様に、心からお礼を申し上げます。
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